ふつうという理想
友人に、只ならぬ人生を歩んでいるくせに(ゆえに?)とても「ふつう」に固執する人がいる。
彼女は「ふつう」が何よりも好きなのだ。「ふつう」こんなんじゃない。「ふつう」もう結婚する歳だ。「ふつう」はこうなんじゃない?
恐らくだが、ふつうの生活をしている自覚がやはり無く、必要以上にふつうに固執しているように見えた。
わたしもそんな時期があった。
「もう25歳なんだから、結婚するのがふつう!」
「結婚を考えられないような恋人ができないしいないわたしはおかしい!」
「正社員で就職するのがふつう!」
「25歳になれば実家出て一人暮らしするのがふつう!」
「メンヘラとか卒業するのがふつう!」
「こんなのふつうのカップルじゃない!」
「わたしはふつうじゃない!」
「わたしの家はふつうじゃない!」
一生言ってた。ふつうという言葉に本当にとらわれていた。魔法の言葉だ。
「ふつうの家庭」とか「ふつうのカップル」とか「ふつうの暮らし」とか「ふつうのしごと」とか、外から見ただけじゃ比べようがないし、隣の芝生は見れば見るほど青い。
ただふと、開発中の土地なのかと思うくらい回りに恋人ができ始めたので、ふつうの25歳はどんな恋愛をしているのか調べてみた。
えっ全然ふつうじゃない!ぜんぜんふつうじゃない!恋人がいること、全然ふつうじゃないよ!恋人がいるあんたらすごいよ!
逆になんで、わたしくらいの年(25~アラサー?)になると結婚をしないといけない、結婚するのがふつう、恋人がいるのがふつう、という価値観がどこから来たのかが疑問になってくる。だって多く見て70%が恋人いないのよ?恋人がいない方がおかしい、なんて「ふつう」を指す言葉が「大多数」だとするならおかしくない?恋人がいるほうが「少数派」で「ふつうじゃない」わけでしょ。
というわけで年次推移。
この調査の対象は新成人。
一番多い1996年の時点で20歳になった人たち。現時点で44歳。わたしたちの親より少し下の世代くらい。
これより前のデータについては残念ながら見つけることができなかったけれど、今より劇的に低くなっていることは想像しづらいことから、おそらく高かったか、同じくらいだと予測してみれば納得も行く。
「わたし今の新社会人さんの歳で結婚したよ」
これだ。
これが呪いなのではないかと思った。言っている側は大した意味もなく、事実を言っているのだろう。
だけど、これが大きく刺さっている。気づいてもいないところで。
大学の進学率や女性の進学率はどんどん上がっているのに「ふつう」だけはアップデートされないどころか、上の世代の「ふつう」がわたしたちの世代の「ふつう」として重くのしかかってくる。
じゃあそんなもんうちらにとっての「ふつう」でもなんでもないし、そもそも、「ふつうのひと」なんてどこにもいない。
わたしたちは「ふつう」という理想に縛り付けられているだけだった。
グラフ引用: