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みんな7月17日に公開した映画「劇場」みた?!見たかな!?

又吉直樹原作の「劇場」という映画がアマゾンプライムでの配信と、映画館での公開を同時に行うという初の試みで公開初日に見に行きました。

かなり公開日から日にちが浅いので、あまり詳しい内容に触れることは避けますが、見る予定で、ネタバレとか嫌だよ~~~~って人は読まないことをおすすめします。

今回のブログは本当に見てほしいっていうきもちと、なんでこんなにおもしろかった~~~!!って思ってるのかを確認する記事です。おもしろかった~~~~!!!

あまり小説などを沢山読むほうではなくて、どちらかというと、映画やドラマなんかの映像作品が好き。又吉さんの作品はそんなわたしも読めた…!とかではなく、大変申し訳ないのだけれど、ふつうに火花とか映画しか見てない。映画、めちゃくちゃ好きだ。

又吉さんが書いた火花は、そもそもお笑い芸人の話なのだけれど、お笑い芸人であるが、それ以前に人間という感じがして、ハッピーエンドでもなければバッドエンドでもない。

たまたまお笑い芸人という人生を選んだ人間の人生のワンシーンを切り取ったような作品で、人間の人生はどんなことがあっても続いていくのだということを示しているようだった。

今回の劇場もまさにそれで、まだ1度見ただけなので、詳しく時間の流れなどを把握しきれているわけではないのだけれど、二人の男女の、二人が二人で出会ってから、別れるまでの間を書いたよくある話といえばよくある物語だ。

ヒモ男と共依存に落ちていく女というような話にもとれるかもしれないけれど、主人公の心理描写がとてもこまやかで繊細だった。

よくいるステレオタイプのクズ男が案外こんなことを考えているのかと思ったら不思議な気持ちになった。

クズ男やヒモと付き合う女の子に、そんな男君の事愛してないからやめなさいとか、わたしは簡単に言ってしまうけど、この映画の中で語られる男が彼女を愛してないかと言われればそういうわけではなさそうで、ただ、彼女を愛するのに必要なだけの心の余裕と、自分のプライドと、羨望とでぐちゃぐちゃになっているように見えた。

松岡茉優ちゃんはとってもかわいくて天真爛漫で純粋無垢なヒロインをすごく素敵に演じていて、さわやかな少女漫画のイケメンキャラしかやらないと思っていた山﨑賢人は最後のスタッフロールを見るまで彼だということに気づくことが出来ないくらいに役にはまり込んでいた。

冒頭でも話したように火花と同様にすっきりする終わり方のわかりやすいハッピーエンドみたいなものではなかったかもしれないけれど、わたしはこの映画を見てもやもやとする時間がとても好きだ。

みんな見て~~~!!!おもしろかったから~~~!!!

こういうところ見せないように頑張ってたんだけどな

「こういうところ見せないように頑張ってたんだけどな」

酔っぱらった彼が電話口でそう言った瞬間胸が高鳴った。わたしはこういった少女漫画的な言葉にめっぽう弱い。

ほかにも婚約が決まった男が酔っぱらって「俺、今なら誰とキスしてもいいと思ってる」と言ってキスをしてきた。えっちすぎる。少コミで見たやつだ。インスタのCMに出てくるえっちな漫画のせりふだ。

普通に倫理的に最低なことをしているのに「えっちだな~」と受け入れるわたしも中々どうして頭がおかしい。

なんでこんなに少女漫画とかレディコミに出てきそうな台詞をポロっと口をついて出るんだろうか。逆にすごい。

そしてわたしはそういうせりふにまんまと騙されてしまう。ちくしょ~~~~!!

わたしはこれまで色恋沙汰にはかなり疎くて、本当にまともな恋愛はしてきていないと思う。歴代彼氏何人?とか聞かれると一気に声が小さくなる。

だからこそ、そういうベタなせりふや言葉に惑わされがちなんだけど、恋愛経験がたくさんあればこういう言葉には惑わされなくなるんだろうか。百戦錬磨の人がいたら教えてほしい。

まあでも、「会いたい」とか「好き」とかいいながら全く会いに来なかったり、連絡をしてこない人はもう信用しないことにしているし、昔に比べたらきっとちょろさは薄まっているはずだ。

あ。もしかして、言葉よりも行動や、見えづらい所にきゅんと来るようになったら幸せへの近道なのかもしれない。

32歳腐女子さんのはなし

他人の価値観や考え方にあまりケチはつけないようにしているし、誰にケチをつけられるものではない。

ただ、ふつうとか一般的とかそういうものがあるっていうのは、まあある程度みんな思い至るところだからその辺の集合地点がふつうとか一般的って呼ばれるのかなとも思う。

ただ、ふつうとか一般的とかいう言葉がわたしはあまり好きではなくて、できるだけ使いたくない。特に他人の人生に口出しするときは。

「それくらいふつうに考えればわかるでしょ」「一般的に」「ふつう」「みんなそうだよ」それらの言葉は言っているときは正直気持ちがいいし、自分が正義の味方になったかのような気分にしてくれる。

でも、それが自分に向けられた時固く鋭い刃になる。

だからできるだけ「ふつう」「一般的」という言葉はつかわないようにしている。

そんな中、ちょっと話題になっている記事を発見した。

32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる

匿名のはてなダイアリーに投稿されたもので、32歳の腐女子が久々に同世代の友人と会ったら、自分の子供っぽさ(服装、テンション、お金の使い方等)に恥ずかしくなるという話だ。

わたしはあっち側なのか、そっち側なのかという不安と、自分にも身に覚えがあった。

わたしはとりあえず今の仕事は時間もお給料も安定した仕事で、正社員として働いている。社会人としての生活も落ち着いてきて、恋愛をこじらせてはいるが、なんとか暮らしている。

「一般的」な25歳(もうアラサーの仲間入りだ)はどんな風かと言われれば、最近は結婚の波が襲ってきていたり、まあ楽しく仕事をしていたりという事が多い。

18歳で大学に入学、22で卒業。若しくは高校卒業から数えれば7年、3年も社会人をすれば、かなり生活も落ち着いて、彼がいれば結婚や子育てなど次のライフステージに移ってもおかしくない頃だと思う。

貯金やお金の使い方にもある程度余裕が生まれてきて、自分に投資したり、少し高い買い物をしたり、趣味を楽しむのも今の特権かもしれない。

あたりまえのことだけれど、ライフステージが変われば、お金の使い方、生活、大切なもの、価値観はもちろん変わっていくし、それに合わせて、友人なども変わっていくことも多いとおもう。

それでも長く続く友人がいたりするのは、きっと同じように変わっているからだと思う。

同じタイミングでライフステージを歩んでいけば、少しのズレがあったとしても同じようなタイミングで同じような悩みなどを共感することができる。

どんなに大切な趣味があっていても、そこへの熱意や燃え方は変わっていくものだし、それは大切なものが増えれば増えるほど、どんなに好きでもそれは仕方がないことだと思う。

いくら大好きなアーティストのライブで、外したことがないとしても、出産した次の日にライブに行くことはできない。

わたしも、学生から社会人となり、週に5日間8時間、出勤して仕事をしている。

確かにそんなに大変な仕事でもないし、まだ働き始めて少ししかたっていないし、重たい責任はのしかかってはいないが、それでも、学生の頃とはえらい違いである。

 

色々と感じる事はあるけれど、責任が兎に角ついてまわるということだ。仕事も、人間関係も、重荷となっていく。

また、1人暮らしを始めて、学生の頃のように好きな物に好きなだけお金を掛けられるわけでもなければ、貯蓄のこと、保険のこと、個人年金のこと、自分の事だけじゃなく親やきょうだいのこと、奨学金のこと。考えなくてはならないことがたくさんある。

だから昔ほど恋愛だけ、趣味だけ、楽しいことだけに時間やお金を費やしてもいられない。

わたしがこの話を読んで思ったのが、学生の頃からの友人の事だ。彼女とは学生の頃から趣味が合って、紆余曲折あったが今でも何かと連絡を取り合う仲ではある。

彼女との関係に陰りが見え始めたのはわたしが社会人になったころからだ。

学生の頃に比べて、もちろんだけど生活も考え方も変わる。年齢は1つ上なのに、正社員として働くのは嫌だとか、目標の為になどと理由を付けては仕事を辞めて、結局水商売をしながら親族の支援を受けて生活をしている彼女を見てイライラしてしまうようになった。

正直うらやましいのだと思う。仕事をしなくても、好きな事だけをして(いるように見える)ボーっと生きていける彼女のことが。

彼が出張だと言えば、自腹で新幹線に乗りホテルを取って、出張先で仕事が終わるのを待つ。そんな彼女を彼が死ぬほど愛しているのかと言われればそうでもない。ずっと一緒にいたい気持ちはわかる。けれどふつうの社会人をしていたらそんなことはできない。時間も、お金も無駄にしているようにしか見えない。

彼女は想像するような水商売の派手なタイプではないし、堅実な人でしっかり貯蓄もあって、資格勉強していたことも知っている。

今年でわたしと同じくアラサーの仲間入りした彼女が、学生を卒業してからの10年近くの空白期間があることに不安がないのか、親族からの支援を受けられなくなったらどうするのか、水商売も一生やっていける仕事なのかと実際自分がその立場だった場合に心配になることを口うるさく言ってしまう。

自分だって彼女との違いは正社員として仕事をしているくらいで、落ち着きはないし、お金の使い方だって粗雑だ。

32歳腐女子さんのような生き方や生活を否定するわけではもちろんないし、誰かの生き方を否定することは、自分の生き方を否定することにもつながりかねない。だから、したくないのだけれど、色々言ってしまう気持ちもわかる。

わたしが何をあげられるんだろう。

彼氏が欲しいとか、好きな人に好きになって欲しいとか、色々言ってはきたけれど、考えに考えすぎて、彼氏とか恋愛とか、イマイチよくわからなくなってきた。

そもそもなんで恋人を作るのかとか。恋愛は独占欲と性欲が合わさったものだと思っていたけれど、そもそもなぜ独占欲が発生するのかと言われれば、人間なのだから、自分へのメリットがないとそもそも独占したいとも好きだとも思わないはずだ。

その代表格が、自分が一緒にいて楽しいとか、特別な気持ちになれるとか、そういうところだろう。

恋を始めたてのわたしは、それがよくわからなくて、恋人は自分の弱い所をすべて面倒みてくれるのかと勘違いしていた。

今考えると本当に最低すぎる。寂しいのも悲しいのも、メンヘラなのもすべて自分が原因なのに、それをすべて恋人に明け渡して、幸せにしてくれと全身で寄りかかっていた。

そんな重荷になるだけの恋人なんていらないし、嫌になって当然だと思う。

それを自覚したはいいものの、わたしはわからないのだ。

わたしが何をあげられるのか。

わたしがわたしの好きな人のために何をしてあげられるんだろう。わたしにはそれがわからない。一緒にいて楽しい?そんなの相手にしかわからない。特別楽しませることもできなければ、養えるほどの財力があるわけでもないし、一緒にいてすべて帳消しになるほどかわいいわけでもない。

わたしには何があげられるんだろうか。

「苗字が変わりました」

職場の先輩が結婚をしたらしい。

おばさんたちの風のうわさで、彼女がいることも知っていたし、30過ぎた先輩だったので、おお、タイミングか。とも思った。

わたしが結婚について話し始めるとだいたい友人たちはそろいもそろって「また始まったよ」という顔をする。今回はそういう話じゃないので安心してほしい。

 

「新社会人さん、私事で大変恐縮なんですけれど、入籍を致しまして」

「おめでとうございます!」

「苗字が変わりました」

「ん?!」

 

驚いた自分に驚いた。これだけ多様性とか、夫婦別性とか、男女平等とか、色々なことに口を出しておいて、一瞬でも、先輩(男)の苗字が変わることに違和感を覚えたのだ。

何よりも自分の見えない偏見に一番驚いたのだ。

夫婦別性も、何もかもそれぞれ当人たちの問題だ。

当人同士で決めたことであって、他人が口出しすることでも、ジャッジすることでも全くないのに、驚いてしまった自分に驚いている。

きっとわたしは気づかないうちにもっとたくさんのものに対しての偏見を持っていて、偏った見方で生きている。

それは、どんなに勉強しても、どんな生活を送ってきたかで人それぞれ違うのだから、仕方のないことなのだとおもう。

ただ、自分は偏見があるということを理解し、生きていくことはできる。

気づけてよかった。

次男の人の苗字が変わっても、きっとわたしは驚かずに、心の底から祝福できるはずだ。

無理オブザイヤー2020

無理オブザイヤー2020受賞者としては無理ほんとうに無理

昨日の色ボケブログで書いたように、HP回復ポイント男となんとなく気まずくなってここ一週間くらい(そんなに経ってもいない)連絡を取ってなかった。

というのも、またよくわからない恋愛コラムに触発されて、好きにさせるには押して引くの引くが肝心だとかで、駆け引きとやらに手を出してみた。

いつも恋愛になると感情ばかりで暴走してしまうわたしは、感情を抑えて我慢する練習になればいいとも思っていた。

普段からあまりライン連絡もしないタイプだったので、彼とのライン画面は殆ど着信履歴ばかりが残る。

何度も電話してしまおうかとライン画面を開いては閉じて開いては閉じる。

繰り返している。完全に好きじゃん。

思いつつ、我ながら変わり身の早さにあきれてしまう。本当に構ってくれれば誰もいいんだと思う。

でも本当に付き合い自体は長いけれど、明らかに幸せになれない未来が丸見えな男を好きになること、正直数えるほどしか会ったことない。

てか会ったことあった?会ったとしても大昔すぎて記憶がめちゃくちゃあやふやだ。正直顔もいまいち覚えてない。

というかいつもいつもこの人の思わせぶりな態度に振り回されてこの10年の間に何度も恋に落ちてる(このフレーズ気に入った)

4年ぶり3回目の恋です。甲子園出場記録かよ。

高校球児は涙を呑んで甲子園中止になったのにわたしはのんきに恋をしていいのか。 

年貢の納め時なのかもしれないと思ったり、そもそも昔から酔っぱらったときやゲームがひと段落したときにしか電話をかけてこない男のどこを好きになるんだとか、あの人のこと何も知らないなとか、本当にお前は構ってさえくれれば誰でもいいんだなと思ったり、遠距離は嫌だ結婚したいだとか、色々と考えては消える。

いやすぎる。まじで勘弁。

何度も電話しようかと携帯に手を伸ばし掛ける布団の中で、有川浩塩の街という小説のせりふを反芻していた。

だってあたし、秋庭さん名前も知らないのに!

この小説は世界の危機にたまたま知り合った男女が一緒に暮らすうちに恋に落ちる話。片方はふつうの女子高生、もう片方は世界を救う力がある人。

男の子は女の子を守るために世界を救う。そのためには命がけで戦わなくちゃいけなくて、女の子はそれを止めるために必死だった。大事な人がいなくなるくらいなら世界なんてなくなってもいい。

イレギュラーな世界で出会ったから、好きな食べ物、許せないこと、くせ、におい、性格は知っていても、どんな人生を送ってきた人で、どんな恋をしてきたかなんて、知る由もなかった。

まあわたしも彼も世界は救わないし、確かにパンデミックで世界の危機にはなっているかもしれないけど、わたしはただの福祉従事者で、彼はサラリーマン。これが看護師とコロナウイルスワクチン研究者とかなら話は変わっていたかもしれないな。

そんな大それた恋ではないのに、モードはすっかり悲劇のヒロインだ。

こんな風に大好きな恋愛小説を思い出して反芻しながら彼を思い出している時点で答えは決まっている。というかこういうことを書けば書くほど、自覚させられる気がする。

あー最悪だ。恋愛なんてするもんじゃないな。

みんなの世界

皆さん耳に胼胝ができるくらい(打ったら出てきたんだけどこれでたこって読むらしい)聞いたかと思いますが、聞いてくれてるとうれしいですが、わたしは福祉の仕事をしてます。

だからか、虐待や障害者雇用、差別なんかには人一倍敏感である自覚も、敏感でなくてはならないとも思っております。

そんなわたしが改めて、できるだけわかりやすくふくしってなんだろうって話したいと思います。

聞いてくれればもちろんうれしいし、わたしの頭の整理になればもっといいなとも思います。

 

まずふくしとは、しあわせゆたかさを表すことばです。

よく、わかりやすく伝えるためだんのらしのあわせなんて伝えることも多いです。

ごはんを食べて、お風呂に入って、お布団で寝る。

当たり前に安心できる家があって、居心地のよい人間関係が築けていること、当たり前に人間としての権利(=人権)を享受できること。

福祉って難しいとか、自分には関係ないとかよく思われる方多いと思います。

福祉=介護という方も多くて「福祉系の仕事?ああ、介護士」なんて言われることもしばしば。

なので、福祉ということを言うと「なんか大変そう」「困ってる人向けの」「高齢者でしょ?」「自分に関係ない」という方がとても多いような気がします。

ただ、わたしが福祉の仕事をしていて思うのは、ほんとうに明日は我が身だということ。

明日突然自分が、家族が、恋人が、友人が車に轢かれて半身麻痺になれば、もうそこから、あなたやあなたの大切な人は皆さんが言う「福祉の必要な人」です。

そうでなくても、長寿社会ニッポンで生きていく以上、70歳、80歳になっても生きていることも珍しくないです。70年も80年も同じ身体を使っていれば、足腰が立たなくなることもあるし、トイレだってできなくなるかもしれない。そしたら「福祉の必要な人」です。

コロナ渦の中で明日失業して、家もなくなるかもしれない。それももちろん「福祉の必要な人」です。

わたしたちは本当に危ういピアノ線一本の上に立っていて、いつでもそっち側(=福祉の必要な人)に行くことがあります。

それは、本人の意思でも、努力不足でもなくたまたまだったり、何かのせいにするとしたら環境のせいだったりすることが殆どではないでしょうか。

今の社会では、いい意味でも悪い意味でも、自己責任と言われます。

でも、ふとした拍子にあっち側に行ってしまったら?同じように自己責任という呪いを自身にもかけるのでしょうか?

そうなってしまったら、自分で助けて!ということも言えなくなってしまい、自分で自分を助けることもできなくなってしまいます。

他人に呪いをかけることは、自分に呪いをかけることにもなると思います。

明日から突然福祉の気持ちを持てとか、募金をしろとか、障害者に優しくしろって言っているわけではないんです。

ただ、興味を持ってください。関心を向けてください。どんなことが大変で、どんなことに困っているのか知ってください。

そして、自分自身が困っていることも発信して、他の人から受信した困っていることを自分にできる範囲で助けてあげてください。

他人ごと」を少しずつ「自分ごと」にしていけるようになれば、きっと社会全体もやさしくなるんじゃないかな。

色々と言いましたが、ふくしって、みんなが暮らしやすい世の中の事だと思います。

そのみんなは、仕事や身分、障害の有無や年齢、性別、肌の色や目の色、性的趣向も関係なく、日本に暮らす126,180,643人全員です。

もちろんこの記事を読んでくれているあなたもそうだよ。

あなたには幸せになる権利があるんだよ。

みんなが暮らしやすく、だんのらしのあわせを送ることが、ふくしの目標で、意味だと思っています。

きっときれいごとだとか、思う人もいると思います。みんなが暮らしやすい世の中なんて無理だと。

でも、世の中は確実に変わっています。昔なら見向きもされなかった、もみ消されていたいじめや、地下牢に閉じ込められていた障害者たちが問題視されました。

他にも、LGBT不妊症を題材にしたドラマが放映されたり、駅のバリアフリー化が進んでいます。みなさんの力で、みんなを指す範囲はとても広くなっています。

それは、ドラマの作成者や、駅を作る人、建築会社の人、いろんな人がみんなを知ったからだと思っています。

少しずつですが、着実に、世界は変わっていると思います。

もちろん人間には汚い部分もあるし、悲しい思いをすることもある。けれど、きれいごとを目指していくことって、とっても大切だとわたしは思います。

だから、みんながいることを、みんなで知っていこうね。