表記の持つ力

さて、わたしは面倒くさがり屋だ。部屋は汚いし、郵便受けはぐちゃぐちゃ。

母親に「すいかの種、面倒で食べちゃう」と話したら「子供のころからだよ」と言われ、筋金入りのものぐさを実感した。

そのくせ、解決しないことをうだうだと考えることが好きだ。宇宙の広さとか。

一般的にタブー視(もうその基準もわからない)される言葉もすぐ使う。障害者とか、ジェンダーとか、差別とか?わたしの中ではもう当たりまえになってしまっていて、何が一般的にタブー視されることなのかわからない。

友達とは、鉄板焼きを食べながらカップルが自撮りをしているのを横目に障害者雇用について話したり、飲み会ではこれからの福祉職員の雇用について熱く語ったり、数年前の津久井やまゆり学園の話や、最近虐待死した子どもの話を当たり前のよう出す。

さて、そんなわたしがここ数年気になっていること。

表記について。

障がい者、障害者、障碍者

大学の頃からずっと気になっていて、わたしは正直な感想を一言で言わせてもらうと

どうでもいい

めちゃくちゃどうでもいい。

※あくまでも個人の意見です

障害者だろうが障碍者だろうが障がい者だろうがその人が持っている障害は変わらないし(ここでは障害と統一)なんなら文字数の関係で大学時代のレポートでは障害と障がいを使い分けていた。

あくまでも個人の意見なので片耳で聞いてほしいのだけど、わたしは正直なところ当事者でもない(発達凸凹はあるけど)し、身近に障害者がいるわけでもない。

障害の害という字が不適切だ、という意見がある。理由としては、傷害や害虫、害悪など悪いイメージがあるからだそう。

ただわたしの意見を言わせてもらう。そもそもなぜ障害という言葉が生まれたのだろか。

目が見えない、耳が聞こえない、手足が多い、少ない、やれることに凸凹がある、実年齢より理解力が低い…もっと他にもいろいろとあるだろうけど、それを称して障害と呼び、それを持っている人を障害者と呼ぶ。

待って、そもそも障害を持っているって何?

わたしはとてもとても目が悪い。両目で0.1もない。眼鏡なしではなくした眼鏡を見つけられない。だから、眼鏡の定位置は決まっているし、眼鏡をなくした時はきょうだいに探して貰っていた。

眼鏡がなければ車の運転はおろか、歩くこともままならない。

え?待って、それって障害者と変わらなくない?

わたしは眼鏡という文明の利器(?)のお陰で普通の人間の顔をして歩いていられるけど、眼鏡さえなくなれば立派な障害者だ。誰かの助けなしでは生きていけない。

逆に考えればどうだろか。車いすに乗って生活をしている人、目が悪いわたしと同じように、器具があって生活を送っている。

じゃあ、車いすの人が”障害者”と呼ばれてわたしが”障害者”とは呼ばれない違いは何?

車いすに乗っていても、歩ける人と同じように生活できたらそれは障害じゃないんじゃないかなと思います。

階段がないとか、段差がないとか、トイレが広いとか、たとえば街中がそんな風に車いすに乗っていても困らないつくりになっていたら、それはもう車いすに乗っていたところで障害ではないのでは?

障害があるのは本人ではなく、社会ではないかと思うんです。

その人の身体に障害があるのではなく、社会で生きるのに障害がある人。

そんな風に考えたら、わたしはむしろ、障害者という表記のほうがあっているんじゃないかなと思います。